名古屋・愛知・岐阜の解体工事|一宮市の大中環境社長ブログ

吉田松陰

2017年 1月 20 金曜日

最近読んだ本で、吉田松陰の言葉が良かったのでブログにあげてみます。
飛耳長目・・・吉田松陰先生

「かくなれば かくなる事と 知りながら 已むに已まれぬ大和騙魂」
松陰の教育は 「知」だけではない。 弟子達の誰よりも 先に死ぬ事によって 生き様を示し 己を尽くせという事を 身をもって示したのである。 源頼朝以来600年に及ぶ 武家政治を倒した 英 雄・ 吉田松陰と言っても 過言ではない。

 

●今の教育を見直す為に「松下村塾に行こう!」という事になり、若手会員と共に修学に行った。そこで多くを学び、現代教育の見直しを強く感じた。 天才教育者・吉田松陰先生は、国を思うあまり、死をも厭わないという姿勢を貫いた人物である 彼は25才の時に下田に来ていた黒船(ペリー)に忍び込みアメリカに密航しようとするが失敗し、鎖国の法に背いた罪として、萩(山口県)に移送され野山獄という牢獄に収監される。囚人の中に彼より若い者は一人もいなかった。中には70才を越える者もおり、世間からはじき出された厄介者ばかり11人の中で、松陰は自然と尊敬を集め慕われていった。(その陰には佐久間象山の教えが大いにあった事を忘れてはならない。)
●世間から厄介物とされた者達に、ここでは一転して先生に奉られ、獄中での付き合いが深まっていった。松陰は「孟子」の講義を始める事になり、これは愛国の情をこめた人生観を現す独特な講義であった。「野山獄」は一度入ったら死ぬまで出られないのが通例であったが、松陰の教育で「すね者」だった人々が人間的に素晴らしい変貌を遂げたのである。 元々能力のある、こういう人たちを死ぬまで閉じ込めておくのは日本国の損失だとする松陰の保釈運動が功を得て、多くの人達が獄を出る事になったのであった。松陰が継いだ吉田家からは、藩の兵法指南の家柄の為に「私」を捨て「公」の為に尽くす事を、徹底的に教えられた。 

●昔は「蚊に刺され痒い」というのは「私情だ、我慢しろ!」、勉強して「疲れた」と言うと「我儘め!」と気絶するまでぶちのめされた。それでも彼の母は止めに入ったりはしなかった。「死ねば苦労しなくてすむから」とつぶやきながら、障子の陰から吾が子の成長をじっと見守っていた。20才になるまで、松陰は生家に引取られるが、侍という身分も剥奪され、生家の三帖間に閉じ込められて生活したのだった。

しかし、父は彼をこのまま腐らせてはなるまいと思い、獄中で講義した「孟子」の評判を知っていたので、父と兄と叔父の三人が「講義してくれ」と頼むのであった。

そのうち近所の人や農家、商人の子供達が集まって来た為に三帖間では狭くなり、馬小屋を改造して八帖間の部屋を作ったのが、松下村塾の始まりであった。
●松陰が教育にあたった期間は2年に満たない。そして、そこに集まって来た子弟は70数人に及んだ高杉晋作を始め、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江杉蔵、野村和作、山県有朋、伊藤博文、品川弥二郎、前川一誠、山田市之丞というように、挙げていくと驚くばかりの人々である。萩の松陰神社には、国の為に尽くし神となった英霊の門弟70数人中42名が祀られている何故たった一年半の間にそれだけの人物を輩出したのだろうか?不思議でならない。松陰には全く私欲がなかったからだと思う。そして、叔父の文之進から教えられた「公に尽くす」という一言に尽きる。その為に死をも恐れなかった。

松陰は若くして死んだが、「死ね」と命令された訳でもないのに、師が国の為に死んでいったのを見て、久坂、高杉、吉田、入江の松下村塾の四天王は国の為に喜んで死んでいったのである。

いずれも松陰より若い人たちだった。松陰の教育は「知」だけではない。弟子達の誰よりも先に死ぬ事によって生き様を示し、己を尽くせという事を身をもって示したのである。源頼朝以来600年に及ぶ武家政治を倒した英雄・吉田松陰と言っても過言ではない。

松陰が常に塾生達に説いたひとつに「飛耳長目(ひじちょうもく)」がある。可能な限り情報を集め分析して将来の為の判断資料にせよ、との教えである。先を読むことは難儀であるが、今こそ 「飛耳長目」である。

自分もこの業界をかけていける様にしていきます。

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